「多様性」という言葉を考える
世の中でよく聞く言葉、多様性。
LGBTQ+と表現される性的マイノリティの人々について語られる時や、民族問題、宗教問題など、とにかく世界中に蔓延る価値観の違いや差別や偏見などの様々な点において散見される。
大体は「多様性を認めよう」というような議題で上がることが多いんじゃないだろうか。知らんけど。
で、とりあえず今回わたしは主に、LGBTQ+と多様性という言葉についての話を考えようかなって思う。
何故かというと、わたしは当事者だからだ。
わたしは
・FtX(肉体の性別は女だが心の性別はXという認識、Xジェンダーについてはあまりに多くの事例が当てはまるので各々調べてほしい)
・ポリセクシャル(複数のセクシャリティが性愛の対象になる性的指向)
・リスロマンティック(他者を愛することはあるが、相手からの好意を望まない恋愛思考)
この3つを抱えている。まさに三重苦だね。うんうん。
まあこんな感じなので、世の中のマイノリティの話題に関しては興味があればたまに目を通している。まあ興味がないもんは興味ないけど。
話に戻ろう。
多く散見されるこの「多様性」という言葉、わたしは大変に難しい言葉だなあと感じている。
単純に言葉の意味だけ捉えると、多様性とは「幅広く性質の異なる群が存在すること」とWikipediaに書いてあった。ので引用する。
「幅広く性質の異なる群」とは。
LGBTQ+と呼ばれる性的マイノリティの人々、それからマジョリティの人々、ひいては動植物も何もかも、この世に存在する全てに当て嵌まる言葉だろう。
つまり噛み砕いて言えば「どんな人間も存在してていいよ!」みたいな意味になるわけだ。
どんな人間でも。
それは極端な話、「LGBTQ+に対して差別的な意識を持つ人間もそのまま存在して構わない」という話になってくる。だってどんな人間でも存在は許されているのだから。多様性を認めるとはそういうことである。
なんだけど、LGBTQ+の人々は差別や偏見の目に晒され過ぎて、マジョリティの人々よりも恵まれない環境下に置かれてしまうことに慣れ過ぎて、この「多様性」の意味を曲解してしまう時があるのだ。
どういう風にかと言うと、極端な例の話をするが「差別するなんて多様性を認めていない!多様性を認めろ!」という風になってしまう。
どんな人間でも存在して構わないはずなのだ。それなのにその人間の思想を捻じ曲げようとしている。「多様性」という言葉をナイフ代わりに振り翳して。なるほどな。
そういうナイフになってしまったかわいそうな「多様性」を時々見るたびに、わたしはこう思うのだ。
「多様性だなあ」と。
※あくまで個人の意見です。この徒然なるままに綴った文章も「多様性」の一種であり、もしこの文章にナイフを振り翳したくなった貴方もまた「多様性」です。でもわたしはナイフが刺さると痛いのでしまっておいてもらえるとすごく助かります。
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